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貨幣プール論 貨幣ヴェール説 それは商品貨幣論

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前回までの3回の記事で
「金融とは、本来、信用創造での貨幣の発生・消滅の機能を、物質的な移動現象に置き直した表現方法である」
とお話ししました。
そして、その「置き直した表現方法」は、「貨幣に信用を与える」という大事な役目がある、
とも言いました。

これはつまり「金融とは信用創造を商品貨幣論的に見るという行為」なわけです。
(ようやくスタイリッシュにまとめた表現ができたw。)

例として取り上げたのは「銀行間の送金振込」ですが、これは別に銀行間取引でのみ行われるわけではありません。
政府と民間銀行、政府と日銀、日銀と民間銀行、そして民間銀行と企業や私たち民間人、全ての取引関係において行われる信用創造の現象を「物理的な移動現象」に置き直して表現することができるわけです。

そして、この「置き直し」があまりにもリアルであるが故に「信用創造」での説明を重要視しないで「商品貨幣論オンリーで貨幣現象を見てしまう」というのが現在の経済観の間違いの原因となるわけです。

「あまりにもリアル」なのは商品貨幣論が「物質的な移動現象」だから「信用があるため」ですね。
経済評論家の三橋貴明さんはこれを「貨幣プール論」と呼んで国家財政に適用することを批判しています。


■貨幣プール論
貨幣を貯めることができるという物質でとらえて、それを汲み上げて使う。
皆さんにとって一番なじみ深い、当たり前の、そして疑いすら持たない考えだと思います。
中学の公民で「国庫」というものを習ったと思います。そして、国家予算を決めて、その国庫にあるお金を使う、という。
あれが貨幣のプール論です。

この貨幣プール論には亜流がたくさん存在します。

例えば「企業の内部留保の市場への放出させるための経済政策を・・・」という考えは皆さんもマスコミ等でよく聞きませんか?
政府もよく言いますね。

これは
「企業に内部留保という『貨幣のプールがある』ということ」
を前提としています。

この企業の貨幣のプールを放出させる政策、というのは
「インフレにして貨幣の価値を下げれば企業も貨幣のプールを放出し・・・」とか
「内部留保に税金をかける資産課税を・・・」
あとはちょっと珍しいところで言うと
「時が経てば価値が減っていく貨幣(ゲゼルマネー)にすれば企業が貨幣のプール放出するはずだ」
というのは全部「商品貨幣論(金融)に基づく政策」ということになります。

また、「クラウドファンディングでお金を集めて」とかいうのもありますよね。あれも「貨幣のプールを作りましょう!」という考えです。
あれは「民間の貨幣をかき集める」という点でいえば「デフレを促進する」ものなので、政府や公共性の高い組織が主導していいものではありませんが、地方創生の財源としてやろうとしていますね、政府・・・(ぎゃあ)。

そして、「ベーシックインカム」は特に貨幣のプールのイメージが強い政策です。
寧ろプールが無ければできない政策です。

あれは
「政府の国庫プールの貨幣を国民の小さな貨幣のプールに分配」して、
国民一人一人に「あなたにはこれだけの価値の貨幣のプールを与える」
という「プールを国家権力が与える」という独裁的な形態をとります。

さて、以上が、簡単な「貨幣プール論」の説明になります。

他に「貨幣ヴェール説(貨幣ヴェール観)」という表現の方法があります。


■貨幣ヴェール説
これは、貨幣を物質として捉える、というよりは「交換する商品同士の間に存在する、仲立ちを行う媒介物」というイメージになります。
提唱者で有名なのはデイヴィッド・ヒュームというイギリスの哲学者で、「アダム・スミスとマブダチ」だった人ですね。
多分、親友の商品貨幣論を何とか補強してあげよう、という考えだったのかもしれませんね(よけなことを・・・w)。

何で「ヴェール(布)」というのかというと、「交換する商品たちの間に覆い被さっている布(ヴェール)」というイメージになるからですね。

Aという商品とBという商品の間にある
覆い被さったヴェール(貨幣)により
AとBはお互いを行き来する。

つまり、商品の交換を促進するのが貨幣である、ということになるので、最終的にはこちらも貨幣プール論いう「物質交換」に行き着きます。

つまり結果的に二つとも同じものです。

更に面白いのはこの貨幣ヴェール説は経済学の黎明期の学説だったこともあるのでしょうが
「覆い被さっているヴェールに過ぎないんだから、貨幣の量が増えようが減ろうが経済には全く影響しない。重要なのは物質としての商品が交換されることだ。」
と考えているところです。
つまりおそらく今の新自由主義な思想のレッセフェール(自由放任に任せよ)の卵です。

(因みに、この貨幣ヴェール説から「いや、そうは言うけど、貨幣量は現実には影響するだろ?銀貨の価値が増えたり減ったりするじゃん。多少コントロールする必要なくね?」という考えが組み込まれたのがデヴィッド・リカードの「貨幣数量説」になります。)


前回3回の記事を読まれた上でこれを読まれている方は方は気づくと思います。

「商品貨幣論」は「金融・市場・ミクロ経済(買い物)」の分野では当然の考えです。
私も「貨幣に信用を与えるために商品貨幣論、金融の概念は必要」と考えています。
ですので、私はこれを全否定しているわけではありません。

しかし、国家の財政(マクロ経済)を信用以外の側面、特に「供給の分野で語る場合」は、「全く相応しくない」ということが分かると思います。
何故なら、国家財政の貨幣は本来「信用創造」によって調達されるのですから。
貨幣は「現実には物質的な移動はしない」のが「本質」なのです。

以上から私は
「商品貨幣論」は「信用創造された貨幣(まだ説明が足りていませんので信用貨幣論とは表現しません)に従属するものだ」
と考えております。

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金融と信用創造の関係について3(金融について まとめ)

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さて、前回書いたようなことを常々思っていた私自身が、最終的に慨嘆したのは「金融って何だろうなぁ」ということでした。

日銀のサイトでは前回の記事内容の銀行間での振込業務はこのように書かれています。
https://www.boj.or.jp/paym/outline/kg53.htm/
kg5d
丁寧に図までついています。
これでは勘違いする人がいて当たり前ですよね。
「勘違いするように書かれている」わけですから・・・。

つまり、前記事の1.で書かれているわけです。
貨幣を無から創造する2.を前提としては書いていないわけですね。

通帳に数字を書くことで生まれる万年筆マネーは日銀も現実には行っていることですし、国会の答弁でも否定していないのですが、1.以外の説明は一切が省かれています(国民に知られると都合が悪いんでしょうか?本当にイングランド銀行は素晴らしい…)。

確かに、物質であれば安心感があります。
そして説明しやすいし、私たちも非常に理解しやすい。
「B銀行→C銀行」にお金が移動する、というのは「当然の物理現象」なわけです。
「B銀行で消えて C銀行に新たなお金が誕生する」というのは現実には正しくても、「不自然」に見えます。
つまり、世間一般では1.の方が2.よりも信用できるわけです。

更に言うと、実はこの「移動する貨幣」というのは「金本位制」という「貨幣の価値は金という物質との交換ができるという信用に担保されている」という世の中においては寧ろ、そちらの方が主体であり、2.はその時代であれば「狂人の夢」と思われても致し方ないでしょう。

因みに、この金本位の時代は正確には1971年まで続きました。
今から49年前まではそちらの方が現実だったわけです。
勿論、その中においても不換紙幣への移行や逆行と悲喜交々あったわけですが。

さて、それでは私なりの金融とは何なのか、をまとめてみます。

金融とは「債務で創造される貨幣(信用創造)を、『移動する物質貨幣』として『敢えて扱う』ことで貨幣に信用を与える」ということというのが私の考えです。
「『金』という物質を『融かしている』ことを見立てている」=「金融」という、まぁ、昔の人はすごいものです。よくこの漢字を充てたものですね。

そして、察しの良い人は気づいているでしょう。
つまり1.は商品貨幣論です。
融かした貨幣のプールから組み上げる、貨幣プール論です。
貨幣が物質として、商品と交換されるのが、商品貨幣論です。
その商品が金であれば、それは「金本位制」。
米ドルとの交換であれば、「米ドル本位制」ということになります。

ややこしいのは、この商品貨幣論は「信用と価値」が完全に一体化している、というところでしょう。
交換が成立すれば、それは信用を前提としているのと同時に、金の価値、或いは米ドルの価値が、貨幣に付与されます。
この、「信用と価値の一体化」が信用貨幣論にはある意味、全く適さないのです。
まぁ、その話は長くなるので後日に回します。

何度も言いますが、この、とてもリアルに見えるために信用される1.の論理は、しかし、本当の貨幣は2.の信用創造であり1.の金融論理は「敢えて信用を付与する為に行われているオペレーションだ」ということは忘れないでください。

極論、ととらえられるかもしれませんが、誤解を恐れず言いますと、「金融=商品貨幣論」なのです。

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