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「貨幣の信用」と「貨幣の価値」は絶対に混同してはならない 1 ~肯定すべき経世済民の思想~
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- マクロ経済学について
さて、
更なる分かりやすさを目指して「貨幣の信用」と「貨幣の価値」について書いてみます。
更なる分かりやすさを目指して「貨幣の信用」と「貨幣の価値」について書いてみます。
分かり難かったり、ご質問がありましたら、是非コメント、ツイッターでのリプライなどどしどしください。
「貨幣の信用」
と
「貨幣の価値」は不可分な間柄ですが、同一のものではありません。
と
「貨幣の価値」は不可分な間柄ですが、同一のものではありません。
「貨幣の価値」は「既に出来上がっている貨幣の量の増減や為替」によって決まります。
つまり「貨幣の価値」を認識しようとしたとき、「それが貨幣である」という「貨幣の信用」の認識は既に出来上がっているのです。
つまり「貨幣の価値」を認識しようとしたとき、「それが貨幣である」という「貨幣の信用」の認識は既に出来上がっているのです。
これは何を示しているか、と言いますと、
「貨幣の信用」を前提とせずに「貨幣の価値」が独自に存在していることはあり得ない、ということを示しています。
「貨幣の信用」を前提とせずに「貨幣の価値」が独自に存在していることはあり得ない、ということを示しています。
仮に「貨幣の価値」が存在していても、その貨幣に「信用」が無ければ、その価値は意味を失います。
誰もその価値を信じず、受け取りを拒否するでしょう。
誰もその価値を信じず、受け取りを拒否するでしょう。
「貨幣の信用」が無ければ、「価値も信用されない」わけです。
これを私は「貨幣の信用>貨幣の価値」と表現しています。
これを私は「貨幣の信用>貨幣の価値」と表現しています。
しかし、ここで
「貨幣の信用」が無くても「貨幣の価値」が「無理やりにでも」取引されれば、そこに信用ができるのではないか?
という発想も生まれてくると思います。
「貨幣の信用」が無くても「貨幣の価値」が「無理やりにでも」取引されれば、そこに信用ができるのではないか?
という発想も生まれてくると思います。
これが「貨幣の信用≦貨幣の価値」という考えになります。
私は「貨幣の信用≦貨幣の価値」は誤っている、と考えています。
理由は先にも述べた「信用が無ければ、価値も信用されない」というのもありますが、更に付け加えるなら、
もし「貨幣の信用≦貨幣の価値」を肯定するなら「強制的な価値の押し付け」も一種の「肯定される信用」と見做されることになります。
もし「貨幣の信用≦貨幣の価値」を肯定するなら「強制的な価値の押し付け」も一種の「肯定される信用」と見做されることになります。
例えばAが労働し生産したものをBが不当に「安く値切り交換を強要する」ということも「貨幣の信用」としては肯定されることになります。
つまり、「貨幣の信用≦貨幣の価値」は「同格の立場の人間同士の公正な売買関係が成立し得ません」。
それは逆説的に「貨幣を多く持っている富裕層が貧困層を虐げる社会」の肯定となります。
またそれ以外の間違っていると思う理由として「『貨幣の価値』が先に取引されれば、そこに『貨幣の信用』ができるのではないか?」という疑問ですが、これも
「そこに『貨幣の信用』が前もってあることが、『貨幣の価値』の取引により証明された」
だけであり、「貨幣の価値」が「貨幣の信用」を創造した(「貨幣の信用≦貨幣の価値」)というわけではない、と考えることができます。
またそれ以外の間違っていると思う理由として「『貨幣の価値』が先に取引されれば、そこに『貨幣の信用』ができるのではないか?」という疑問ですが、これも
「そこに『貨幣の信用』が前もってあることが、『貨幣の価値』の取引により証明された」
だけであり、「貨幣の価値」が「貨幣の信用」を創造した(「貨幣の信用≦貨幣の価値」)というわけではない、と考えることができます。
以上から、
経世済民を目指す経済学においては「貨幣の信用≦貨幣の価値」を否定し、「貨幣の信用>貨幣の価値」を前提としなければならない、
と私は考えるわけです。
経世済民を目指す経済学においては「貨幣の信用≦貨幣の価値」を否定し、「貨幣の信用>貨幣の価値」を前提としなければならない、
と私は考えるわけです。
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(トラストミー)